いじめについて考える

【いじめが無くなる日は来るのか?】

この世に生まれて、親が愛情を一心に注いだ子供が最初から「他の子をいじめたい」等と考える事は無いはずです。それが保育園、幼稚園、小学校へと進むにつれて、徐々に何かの影響を受け、結果的に「いじめ」という行為を意識もしないで行ってしまう事は珍しく無いと思います。猫も一つのミルク皿を取り合って争います。最初は小さな争いがあって、勝ち負けがあって、次第にいつも勝っていたいと思うようになり、嫌な相手をどうにかしたいと思うようになります。

SNS

人間社会では子供も大人も何かの競争に巻き込まれている訳ですから、争いが皆無になる事はまず無理だと考えた方が正しいはずです。競争が一切無くなったら人は何もしなくなっている老人です。病人かもしれません。健康で何かを求めている限りは競争があり、必死になれば争いに発展します。競争に勝ち負けが無くなれば恐らく争いは無くなり、いじめも無くなるでしょう。しかし勝ち負けは人が生まれ、そして生きている限りは必ず経験します。人も徐々に成長し、勝ち負けに対する価値観も多様化します。負けるが勝ちという言葉が示すように、勝つ事に興味が無く、勝負のステージをどんどん変えてしまう達人もいます。でも子供がこんな達人になれる訳はありません。特に子供は学校という同じ組織の中で様々な競争を余儀なくされます。競争と共存を子供達は学びますが、上手く理解する子供もいれば、いつも損な役回りになる子供も当然います。それは大人の社会でも同じ事で、負けた時点で生活苦に陥る事もあります。

このように何故「いじめ」が生まれるのか?を考えてみると「いじめ」というもの自体が人間が生存する限りは存在し続けると思った方が正しいと言えるのでは無いでしょうか?良く学校で「いじめ」ではありませんとか、「いじめ」はこの学校にはありませんといった発言をする教師を見ますが、何か根本的に間違っていると思います。「いじめ」は当然ありますので、深刻な問題にならないように対処していますと答える先生の話は信用できますが、無いという先生は嘘つきだと思わざるを得ないでしょう。